エロマンガ家はプロになってもヌードデッサンを欠かしません

どんなきれいなヌードでも、アニメの女の子のようには脚が長くないし、じっと見ていればさまざまな「ノイズ」が目に入ってくるのは当然だ。そのことに耐えられなくなって、気分が悪くなるのである。

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080711

不特定多数に対して発せられたある“言説”は当然に誤解される。
誤解=意訳されたものは様々な形で消費されるが、その過程において最初になされた“言説”の核心的な部分が脱落することは往々にして不可避である。このようなテキストの消費を解剖学的な消化と比べることはなかなかに興味深いが、本稿では取り上げない。
しかしながらテキストの“消化”段階においてどのような単語レベルの分解と取捨選択がおこなわれるかについては、今後本稿において論じる主題に対して、密接な影響を与える可能性があり思弁的な付箋として残すべきであろう。
…。
久々に気持ち良く嘘を吐きまくれて気分爽快だ。
第一行目に触発されて六行も、なんとなく頭良さげな感じの文章が書けてしまった。そして書いている間はフランス辺りの思想家の文章を、横から縦に翻訳して飯を喰っているような錯覚に陥ったよ。
よく読むと、誤解=意訳あたりから内容が胡散臭くなり、取り上げないといった話をあとから蒸し返しそうな雰囲気だったりと、悪文の見本のようなものだなこりゃ。こんなものを毎年、卒業論文として読まなければならない社会学系の先生というのはいかにたいへんな商売か、ということだが。四年間もの教育を施したにもかかわらず、この程度のものしか書けない学生を生産した製造物責任というのもあると思うのだが如何。
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ようやく本題。
美少女を描くことで飯を喰っているエロマンガ家は、プロになってもヌードデッサンをやっている、という紛れもない事実がある。音頭を取る人がいるかどうかにもよるが、首都圏では年に数回ほど同業者が集まりモデルを雇ってデッサンをおこなっている。
毎日絵を描くのが商売の漫画家にとって、絵に“癖”がつくことはしょうがないことで、その“癖”が多くの人に認められ、模倣されたときそれは“癖”から“流”へと名前を変える。エロマンガでは一般マンガでの水木流や藤子F流ほどには浸透したものはまだないのが残念なところだ。
さほどに大切な“癖”なのであるが、これは諸刃の剣でありあまりに出過ぎると、古臭い、奇形などといわれ、たちまちに売れなくなるのだから恐ろしい。“癖”には良いものと、悪いものがあり、長く同じ思考や姿勢で描いていると、どうも悪い癖がでてくるようだ。対策としてはいったん脳をリフレッシュすることで、その方法としては現実=三次元を良く見ることが一番だ。
三次元の現実から目を切ることは、たしかに楽ではあるのだが、その報いも受けねばならないことは冷厳な事実である。